2012-11-14

自転車をまたまた楽しんだ話

走行2万キロ到達。もう少し、というところまで来ていたので、先々週は普段の通勤に加え、通勤→横浜のギャラリーへ→帰宅、で約95キロ、休日に自宅→江ノ島→茅ヶ崎→帰宅、で約105キロ。思惑通り、江ノ島行きの途中、467号線長後付近で到達。直前に記念写真を一枚。いつもこういうチャンスはうまくいったためしがないので、ちょっとびっくり。

まあ、まずまずよく走りました。3年3ヶ月かかったのは決して早くはないけれど、こんなものでしょう。ここまで消耗部品は結構まめに交換してきたけれど、とうに延びて交換時期になったチェーンと、このチェーンのおかげで変な風に磨耗してしまったスプロケット(後ろのギア)については手抜き、というか、ほったらかしにしてきた。というわけで、先週は部品(チェーンとスプロケット+コネクティングピン)と工具(チェーン切り、フリーホイー^ル外し二種)の入手にあてて、全部揃ったところで、月曜日に交換作業を敢行。

チェーンを切るのはたぶん冗談抜きで35年ぶりw。こんなに簡単だったかな~と思うくらい天下のshimanoの工具は使いやすく、スプロケットの方(これは生まれて初めて)も、事前のリサーチとイメージトレーニング(?)のおかげでスムーズに進行して、あわせて30分もかからずに終了。11T~32T(1速から8速の歯車の数です)と、いかにも「クロスバイクです」という感じにワイドだったスプロケットは13T~26Tとロード用の中ではワイドな奴とはいえ、大分クロースレシオなものに交換。ま、うまくいくことがはっきりしている、いかにもありがちな改造ではあります。

結果は予想外に良好。なんだか細かくシフトするのが楽しくなって、結果的には、ほんの少し(通勤片道につき1分半程度?)楽に速く走れるように。もう少し調整を進めればさらに気分良く走れそうな予感が。
 2万キロを支えてくれたチェーンは、106コマであわせると、ちょうど二コマ分伸びていました。次はBBまわりの工具も揃えようかと。何はともあれ、機械いじりは楽しいな~。

2012-10-25

新しい相棒

騙し騙ししているうちに、一向によくならない風邪。細君が近所の住人から「その風邪は三週間」と言われてから二週間ほど経つから、そろそろ良くなってもよさそうなものだけれど、少し良くなると帰りに寄り道してしまったりして、自業自得。熱も咳もさほどではないけれど、今日は何も考えずに家でごろごろして録画した映画やドラマなど見たりしております。

そんなわけで、新しく若い相方を迎えて始まった『相棒』の3作目を時間差視聴。
どうも今のところシリーズ11はあまり調子が出ていない感じ。・・・と書いていてふと思い出して確かめてみたら、ちょうど一年前にも、同じようなことをシリーズ10について書いていた。どうもここのところシリーズとしての『相棒』は「スロウスターター」になってしまった感がある。

今さっき見た3作目も、何だかちょっと脚本からして心許ない。ボクサー=趙珉和、トレーナー=山本龍二、ゲストは悪くない。どこかで見たような、と思ったら本職の佐藤修がトレーナー役でいい面構えを見せていて、趙の回想に佐藤ばり大逆転KOシーンがあって面白い。 趙がどうにもプロボクサーに見えないのは困ったものだけれど、許せる範囲。記者役の渡嘉敷が楽しそうに演じて一番いい感じ。芝居ができる人だな~
別に面白くない、というような出来栄えではない水準作なのだけれど、端的に言って、つくりが薄手。新相棒・成宮が被疑者のいるボクシングジムに入門してしまう、なんていうのも「普通の刑事ドラマ」ならアリだが、『相棒』では正直やめて欲しい。

ま、ぼちぼち良くなるのでしょう。成宮寛貴は思ったよりずっとマシで、ちょっと安心。ただ、どうみてもチンピラ風で、その上、全然育ちが良さそうに見えないのが珠に瑕だ。
「おや君も気づいていましたか」「一応、警察官ですから」というあたりが「11」の相棒関係を象徴しているのだろうか。

2012-09-30

久しぶりに新しいブレーキ

ずいぶん長い間放置してしまったもので、
何だか今更、なんだけれど久しぶりに書いてみたりします。

忙しいことはありがたいこと、にしても、今年はお金がない分を労働力で、というわけでもないだろうけれど、やけに仕事がいろいろあって草臥れるばかり。ま、そんな時期もあるんだよな~

自転車もあんまりいじれない(結構乗ってはいるのですが)、ピアノで遊ぶ時間もあんまりない(時間があっても疲れて寝てしまうw)、おまけに土曜日はちょっとしたアルバイトで毎週、ネタを考えないといけない、という自転車操業。

とはいえ、自転車は先々週に弄ったんだった(夜中にね)^^
ブレーキを新しい3500系soraの「コンパクトV」に、レバーをダイヤコンペのギドネットに、当然バーテープも新しいのを巻きなおしてちょっとリフレッシュ。
本当はチェーンを早く変えないといけないのだけれど、肝腎なことを後回しにして、後から泣きをみるのが僕の悪い癖(右京風)。
「コンパクト」はテクトロの「ショート」より気持ち長めの90mmほど。ちょっと今までのVブレーキとは感覚が違う。簡単に言えば、キャリパーブレーキ風の「きき味」で街乗りクロスには非常にいい具合。ギドネットはちょっとガタがあって心もとないので、何とかもう少しガタをなくしたいと思案中ではあります。
ブレーキ本体は今までとはデザインが一新され、ちょっと「削り出し」風のいかにも剛性がありそうな外観で、三本和彦風に言えば「小じっかり」感があって、調整もひどく簡単。ESCAPEデフォルトのテクトロのレバーでうまく引けるはずなので、この交換は一般化してもおかしくないと、個人的には思う。ま、Vブレーキの唐突な効き方、「とにかく止めてやるぜ」感がないのは好き嫌いが分かれるところかも。

2012-02-29

あめりか自動車事情

過日『ドライビング・ミス・デイジー』を鑑賞。

主人公の未亡人デイジー・ワサン(ジェシカ・タンディ)が自動車で危うく崖(といってもほんのちょっとした高さだけど)から落ちそうになるところから物語ははじまる。祖父の代からの事務機メーカー社長の息子(ダン・エイクロイド)が母親に運転手・ホーク(モーガン・フリーマン)を雇う。はじめは運転手を拒絶するミス・デイジーだけれども、いろんなことがあって次第に運転手と心を通わせるハートウォーミングな映画、というのが、まあいわば「通り一編」の要約、ということになるだろう。

 もちろん、そういう「心温まる映画」には違いないけれど、もう少し注意深く見ると、いい映画の例にもれず、この映画もさりげないけれど、実に細部まで気をつかっていることがわかる。ユダヤ人の老女、アフリカ系のショウファ、それに若干、狂言回し的な役割がなくもない息子の三人が主要な登場人物だが、もうひとつ重要な役割を担っているのが1950年前後から70年代前半まで、代々移り変わるミス・デイジーや息子の、そして添景に現れる自動車たちだ。
冒頭で崖から落ちそうになって保険会社にもっていかれてしまうのは、戦後すぐのクライスラー。ロイヤルかウィンザーか、はたまたニューヨーカーか、この時期のクライスラーはグレードが違っても外観が見分けがつかない。基本的に戦前の設計をモダナイズした40年代の雰囲気の色濃い実用本位の良質なサルーンで、時代背景はもちろん、ユダヤ人実業家一家のもともとの実利的な暮らしぶりもまた示している。その代わりに保険屋が提供するのは、やはり戦後すぐのハドソンで、こちらはクライスラーとは違い完全な戦後デザインで、フレームに落とし込まれた低いフロアが特徴の「ステップダウン」スタイル。マルーンに近い塗装がちょっと洒落ていて、主人公二人の触れ合いの端緒でもあり重要な一台だ。ハドソンは、やがて時代の荒波の中で買収されて不幸な行く末を辿り、1960年代を待たずに消滅してしまう。ホークはこの車が気に入り、下取りしたディーラーから買って自分のものにすることになる。
 ミス・デイジーの車はその後、息子の経済的な余裕にしたがうように、それぞれの時代のキャデラックが続く。その移り変わりは、プレーンバックからテールフィンへ、そして縦四つ目へ、20年ほどの時間の中での「モード」の変遷が実によくわかり、またこの変遷が時間の経過を端的に示してもいる。それは映画も終盤、今は運転もおぼつかなくなったホークが孫娘の運転で、ミス・デイジーが施設に入ったため売りに出された家にあらわれる時の、マーキュリー・クーガーのコンシールドランプ(昼間はライトのレンズが隠れているあれです)まで続く。
興味深いのは、この終盤に至ると、成功した経営者である息子の自家用車が、もはやキャデラックではなく、メルセデスベンツ(300SEL)になっていることだ。フルサイズの「アメ車」の滅びゆく道筋が反映されていると同時に、ワサン家の当主ブーリーのユダヤ人としての出自への「意識の変化」も、この選択は暗示している。かつては、戦時下のユダヤ人「供用」の過去から、ユダヤ人には決してメルセデスに乗らない者も少なくなかったという。余談だが、「メルセデス」の由来が、オーストリアのダイムラーディーラー、ユダヤ人のエミール・イェリネックの娘の名だ、などというのは歴史の生んだ皮肉と言えるかもしれない。

 例えば、このメルセデスの登場には、遡って、非ユダヤの妻の尻に敷かれる息子、ユダヤ人にもかかわらずクリスマスを祝うような、いわば「堕落」と成功が引き替えになっていることが重なりもするのだが、他にも、一見淡々とした日常に、さまざまな時代の状況が垣間見える。シナゴーグに仕掛けられた爆弾騒ぎ、息子が商売を慮って出席しなかったキング牧師の夕食会、あるいは親戚の家への自動車旅行中にミス・デイジーとホークが警官と出会うエピソードなど、おおむねそれらはユダヤ人と黒人、二つの差別を受けるグループに属する二人の、「共感の可能性」とでも言うべきものがベースになっている。
そして今現在のこの日本の状況と照らし合わせるまでもなく、もちろんこれは老人についての映画であり、「老い」をめぐる家族についての映画に違いない。いやいや、これだけ色んなことがうまく入っている、というのが、つまり、すなわちもうそれだけで「良い映画」のひとつのあり方ということなんだな~

2012-02-19

手こずった話

簡単そうなことに限って簡単でなかったというのはよくあること。
自分が思う(期待あるいは妄想する)ほど自分は利巧じゃないというのも、自分のような駄目人間にとっては起こりがち・・・。

flikcrを細々と使い始めて5年あまり。もともと、仕事場でも家でも複数のPCを使うのが好きなので、macでもPCでもlinuxでも、自分の撮った写真を壁紙に使いたいという「自己満足」のために、使えそうな(使いたい)写真を時折アップするだけのこと。そのついで、というか延長で、まったくの道楽の一環として、facebookやこのbloggerにも写真のリンクを 送ることができれば面白いかも(?)、ということで、「連携」を設定してみた。ところが、一旦は、すべて問題なく動くようになっていたものが、どうした訳か、facebookに対しては、同じ手順を踏んでいるにも関わらずflickr側がエラーメッセージを吐いて終わりという風にいつのまにかなってしまった。

以下、自分のためのメモとして経過を書いておくことに。
もともと、flickrからfacebookにリンクを送る仕組みは、まずflickrとUSA版yahooを連携させて、さらにyahooを使ってfacebookへ、という流れになっている。そのため、上記の不都合、「うまくいっていたのにうまくいかない」という症例の解決策を検索すると、flickr~yahooの流れを再設定する解決方法がまず出てきた。そこで、yahooにログインして、そこから自分のUSA・yahooアカウントの設定に進み、flickrとの連携を再設定。しかし、状態は改善されず、相変わらずの同じエラーメッセージだ。
ここですべてを最初の、何もやっていない状態にもどしてflickr側の設定からやり直せば良かったのだが、PC設定についてのトラブルがほとんどすべてそうであるように、冷静さを失って「どつぼ」にはまってしまったのだ。
うまくいかない→yahooの設定が間違っていないことを確認してflickr上の設定を何度もやり直す→やはりうまくいかない→yahooの設定を再度やり直す→すべての設定を正しくやり直したのに(と、本人は勝手に思いこんでいる)うまくいかないので、何か見落としはないかと三つのアカウント設定について関係ないところまで見直して余計な変更→結局うまくいかない・・・という不毛な連鎖に落ち込んでしまった訳で、今、言葉にしてみると、なんとまあ間抜けなこと、としか言いようがない。馬鹿だなあ>自分

ここまでで1時間半くらいを費やしてしまったので、ふと我に返って作業を中断。夕方近くになって気を取り直し、連携が何も企てられていない状態に戻して再試行することにした。ここでほとんど「正解」の間際まで到達していたのだけれど、余計なところをいじって元に戻し忘れていたので、また失敗。だんだん嫌気がさしてきていたが、最後の失敗で出たエラーメッセージが今日初めてのものだったので、正解近しを信じることにしてもう一度注意深く最初から・・・。
言うまでもなくこれで「正解」に到達したので、あっさりと、あっけなく、がっくりするほど、簡単に「連携」は実現できてしまった。普通にゼロからやれば間違いようがないほど簡単な手順だから、兎に角、「不都合」が後から生じたんだから、そこを直せばいい、という思いこみで行動したのがすべての原因だったと、今は冷静に理解できる。

人様のPCトラブルについては、1)すべてを最初の状態にする、2)段階ごとに作業を進めてトラブルの内容を切り分ける、な~んて偉そうに説明しているのに、何のことはない、自分の問題になると、ついつい「こんなもんで平気なはず」といい加減な対処をして悪夢にはまる、とりもなおさず、それは冷静さを欠いているからに他ならない、そんな間抜けな奴なんだな~自分は、と痛感させられた出来事でありました。
喉元過ぎれば・・・忘れて同じことやりそうだけど><;

2012-02-18

musashi-kosugi/under construction

武蔵小杉の某マンションからの眺め。
駅前はまだまだこれから開発が続くらしい。
安物スマホで3カット撮影して適当に繋げてみたテスト版です。案外雰囲気はでてるかも^^

2012-02-16

R380(あーるさんはちまる)

昨日今日と。風邪ひいて鬱々としてじっと過ごしてしまいました。

最近買った二玄社SPORTSCAR PROFILE SERIESのプリンス/ニッサン R380~383シリーズなどを熟読して、ひたすら後ろ向きに趣味の世界に没頭・・・。

偶然、テレビ放映された「第3回日本グランプリ」を見たのは小学校4年生のこと。滝進太郎の「カレラ6」とプリンスR380の戦いに心を奪われた記憶が^^そして翌年は高橋国光の「ニッサン」R380A-II対生沢徹カレラ6の戦いに夢中になりました。両者コースアウトからの再始動で勝負がついてしまったのは歴史が語るとおり。踵を接してのスロットカーレーシングのブーム(人並みに熱中した)もあり、何だかひどく懐かしい時期から話が始まるこの本は、ニッサンとプリンスの合併、というか吸収劇をはさんで、60年代後半のメーカーの威信をかけた少々「いびつ」でさえある初期の日本モータースポーツ史を彩る(というか、その主役中の主役であるところの)プリンス/ニッサンのグループ6/7のレーシングカーを丁寧な取材と写真で紹介している。もっとも写真はほとんど知っているもの、手元にリアルタイムの雑誌記事で今でも持っているものなんだけれど、櫻井眞一郎氏亡き今となっては、なかなか詳しい取材もできないだろうから、とりあえず暫定的決定版といったところではないだろうか。櫻井氏といえば、目黒通りを時折今でも走行する「オーテック・ステルビオ」の赤の個体があり(先週も見た)、また、大橋付近には実動は疑わしいけれどガレージに収まった別のステルビオがいる。余談ですが^^

 いろいろと個人的に面白い記述も多く、何より、同時代には断片的にしか判らなかった個々のレースに出てきた個体間の関係(例えば68年の鈴鹿1000キロ出走車が何で速度記録車と同じカラーリングだったのか)など、少し「積分的」な流れが何十年ぶりに理解できて非常に面白かった。改めて興味深かったのは、ニッサンやトヨタのような大企業でさえ、実は70年代になっても現代的なモノコックレーシングカー、ローラT70みたいないわゆるツインチューブのコンテンポラリーなシャーシを自力では開発できなかったという事実。もちろんスペースフレームやストレスドスキン付きのセミモノコックだから古いと決め付けるのも短絡的だけれど、ローラ流の引き写しじゃない何か別のもの、何か(例えばマトラMS660みたいな奴)がつくれてもよかったのではないかと改めて思う。
違う話になるけれど、日本の原子力発電所が、実はあまりきちんと内容を理解しないうちに建設されて、実用的に動けば良い、くらいの感覚がどこかにあったことが先般の「人災」の根底にあったことと、やはりどこかで繋がっている話で、「技術立国」なんて偉そうにしていた日本の産業にもあんまり大きな声で言いたくないような「パクリ」や「コピー」の前歴があって、払拭なんかされていなかった部分がある、というようなことを思い浮かべてしまう。

 それにしてもR381の「エアロスタビライザー」の発想、技術の原点はどこから来てるんだろうか。大げさでなく「宇宙人」の示唆に従ったんじゃないか、というくらい当時のプリンス/ニッサンの技術力からは飛躍があるように思えてならないのだけれど。戦時下の何かにルーツがあったりすると面白いんだけどな~。ところで、初代のプリンスR380もまた現在の駒場第二キャンパスの3メートル風洞で試験されたことがわかり、つい最近この風洞を実際に見る機会があったばかりなので、ひときわ感慨深いものがありました。

2012-02-13

安否確認

起きてみたら今日も寒そう。息子も上海に戻ってしまったし、何もする気にならずごろごろと・・・。いや、でも明日は自転車に乗れるぞ、と楽しみにしていたんだっけ、ということで自転車を引っ張り出したのは10時過ぎだった。

富士見ヶ丘の実家に行くちょっとした用はあるのだが、そのまま真っ直ぐ行ったのでは距離も短すぎるし、あまりにも面白くない。こんな時は何も考えずに登戸の橋を渡って多摩川サイクリングロードへ。平日とあって人も自転車も比較的少ない。一路、川上へ。気温は一向に上昇の気配なし。左の膝に僅かな違和感があったので、速度を上げすぎないように26~7キロを軽いギヤで維持して走れば、 手足の先は暖まらないけれど、15分もすると結構暑くなってくる。

誰が思いついたのか狛江あたりのサイクリングロードには速度を落とさせるための「罠」が何箇所もある。10メートルくらいに渡り、道路に50センチほどの間隔で横切る幅3センチくらいの木が埋め込まれていて、危険きわまりない。こんな嫌がらせみたいなことで自転車の速度を落とさせようという発想は、そもそも、自分で周囲の状況を判断して速度を変えたりしない馬鹿な奴、つまり役人的な頭の構造の人が考えたに違いない。大いに不愉快。こんなことがしてあっても、自転車は皆舗装から逸れて路肩を少しだけ迂回するだけなのが一目でわかり、ますます腹が立つが、もちろん自分も避けて走る。

京王相模原線、多摩川原橋-鶴川街道、相模大橋-川崎街道、是政橋-府中街道、南武線、関戸橋-16号、京王線、野猿街道、日野バイパス、中央自動車道、と順番にくぐれば国立の南、南武線矢川のあたりでいったん舗装が途切れる。右折して少し迂回すればまた続きがあるのだけれど、だいたい、ここまでで後は川から逸れてしまうことが多い。今日もここから少し北にのぼって256号に(覚えやすい番号だ^^)。右折して進めば国立インター入口のあたりで甲州街道になってしまうのでそのまま直進。府中駅周辺には行かず本宿町の二股は左の方に。そのまま高井戸の方に行っても良いのだが、今日は武蔵野線を越えて17号(府中街道)を左折し、そこから東八道路に右折する目論見。ところが17号はあまり車線が広くなく、いつものことながら混んでいるので、適当に17号から逸れ知らない交叉点で東八道路に出た。後は東八~人見街道と進めば久我山方面までは簡単。途中、牟礼のあたりで富山の煎餅屋の店があったので、固くなさそうな奴を選び土産にした。昔の菓子屋の店先にあった広口瓶みたいな形の入れ物でちょっと可愛らしい。

少々耳は遠くなったけれど母親はまずまず元気で、1時前には実家を出る。昼食は実家近くに少し前に出来たイタリアン、「ジェンマ」に寄ることにした。小さなバールはなかなかお洒落だけれど、果たして生き延びられるのだろうか、ちょっと心配。パスタのランチは前に食べたことがあるので、少し高いラザニヤを注文。セットのサラダも比較的量があり、チーズを惜しまないラザニヤもまずくない。コーヒーもまっとうだった。しかし、何かが不足している、という感じがしないでもない。地元に洒落た店があるのはいいことだから、何にしても客が増えてうまくいって欲しいもの。時々のぞいてみることにしよう。

適度な満足感の中、再び自転車に跨り成城へ。ちょっと御無沙汰している五丁目に住む老夫婦を思い立って訪問することに。手ぶらも何なのでマルメゾンでチョコレートなど調達。こちらも元気そうでほっとした。「今日は何ですか」と突然の訪問に怪訝そうな御主人に「安否確認ですよ」と言ったら「あははは、時々確認してもらう必要があるかもしれませんね」と笑っていた。

だらだらと50キロ余り走って3時過ぎに帰宅。午後の日差しには少しだけ春の気配がありました。

2012-02-10

東急文化会館を思い出す

とういうわけで、東急文化会館のこと。

東急の強盗慶太こと五島慶太の依頼で坂倉準三が渋谷駅周辺のプランを任されたのは1950年代。ターミナルビルに百貨店が複合化された「東急会館」(1954年完成)の2年後、坂倉の基本プランで1956年(自分の生まれた年だ)に出来たのが、ショッピングモールにレストラン、映画館、プラネタリウムなどがある「東急文化会館」。時あたかも映画全盛期、映画館が無数に出来た頃だけれど、中でも文化会館は複数の映画館を集めた「映画デパート」なんていわれるような施設だった。
そんな「文化会館」のささやかな思い出を・・・

井の頭線に乗れば家から30分足らず。屋上に巨大なドームをそびえさせるプラネタリウムがビルのシンボルで、家族で、また、学校からも何度も訪れた。プラネタリウムでの「投影(というか投光?)」そのものも素晴らしかったけれど、『アトム』から抜け出したようなプラネタリウム本体の「メカおどろおどろしい」姿や星座をあしらったみやげ用キーホルダーのずしりとした手応えと一緒に、ドームを丸く囲む廊下に並ぶ歴史的な天体望遠鏡の精密模型が目に焼き付いている。それらの模型に直接手を触れて、可動部分らしきところを動かしてみたい、というのが小学生の自分の夢だった。機械仕 掛け偏愛者になったのも、もしかするとその影響からかもしれません。

四つある映画館では、40年以上に渡り、ロードショウから名画までいろいろと見たけれど、やはり一番印象に残っているのは、生まれて初めての映画『101匹ワンちゃん大行進(初公開時タイトル、後「大行進」は省かれることに)』。調べてみると、日本公開は1962年7月27日だそうで、6歳になったばかりの夏だったんだな、あれは。
脱線すれば、地元の居酒屋で、「生まれて初めて見た映画」という話になったことがあり、『ゴジラ対メカゴジラ』だの『愛染かつら』や『オーケストラの少女』などに混じって金語楼の『プロペラ親爺』なんていう戦時下作品の名が出て面白かったっけ。ちなみに自分の父の最初の映画は『オペラ座の怪人』(1925年版・弁士がいたそうなのでサイレントの方と思われる)で、帰宅後眠れなくなったほど興奮し、以来映画に夢中になったと聞いた覚えがある。
その父親は漫画映画が大好きだったから自分も見たくて『101匹~』に連れて行ってくれたようだけれど、中学時代の友達に、父親に連れて行かれたのが渥美マリの『いそぎんちゃく』(1969年)で、エロシーンに酷くバツの悪い思いをした奴がいた、なんていうのは、さらにさらにどうでもいい脱線^^;
話を戻すと、高校生以降になると、主に6階の「東急名画座」や、300円で楽しめる「東急レックス」で随分いろんなものを見た。地下のレックスの客席に柱があったことは覚えていても、肝心のタイトルや中身はほとんどすっかり記憶から抜け落ちていて、『山猫』と『エイリアン』しか覚えてない。あまり良い映画を観なかったのかな~

だらだらと脱線しているうちに草臥れてしまいました。明日へ続き・・・そうな感じ~

2012-02-07

寄り道

目黒からの帰り道、雨降りやなんだかんだで自転車に乗らない日は、バスで渋谷まで出ることが多い。大概座って本が読め、時間が少しかかるのも、かえって考え事に丁度良い。

渋谷で軽く食事することもあり、そんな時に寄るのが東急プラザ。本屋もあれば鉄道模型もある、かと思えば地下はマーケット風で浅草橋みたいなものも売っている楽しいビルだ。その上昼夜の食事の場所にも事欠かず、地下二階に数店舗、階上昇れば9階にあれこれあって飽きない。

時折行くのは、地下の「ぼてじゅう」や9階のとんかつ「蓬莱亭」など。「ぼてじゅう」はカウンターがあるので自分のような薄汚いのが一人でも気が楽で、手際のいい「中の人」を眺めながら結構おいしい「お好み」にハイボールなぞで軽く一杯やれる。味の方は上手な人とさほどでない人がいて運次第ではありますが。「蓬莱亭」は昔から渋谷にある店で昭和レトロな雰囲気。ベーコンで巻いたメンチをカツに揚げた「長崎」や立派な椎茸を使った「どんこかつ」など面白いメニューもある。昭和21年創業「ハチ公ソース」の甘く懐かしい味も特色で、子どもの頃の記憶と寸分違わぬその味で小学生の頃この店の本店(同じく渋谷)に父親と行ったことを思い出した・・・ってちょっと料理漫画みたいな展開ですが。

とんかつと同じフロアには、これまた昔からの「ロゴスキー」なんかもあるのだけど、ロケーションが悪いわけでもないのにいつもどの店も比較的空いている。最近はそんな中の一店「イル・グァッテロ」に入ってみた。初めてということはないはずなのだけれど、良くも悪くも何も記憶していないので、まあ、初めてみたいなものだ。ひろびろした店内は昭和50年代風の雰囲気が漂い、その一角には仕事のみえるクチーナが。さほど腹が空いていた訳でもないので、グラスワインにカプレーゼ、ペンネのアラビアータを選ぶ。グラスで買えるワインは4種、安い方の赤を頼む。これが予想外の良さだった。イタリアなのかスペインなのか、遠目にはほっそりと見えるけど傍に行けば、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる大人っぽいヨーロッパ美女だ。650円は本当は高いけれど充分我慢できる。カプレーゼもトマトはちょっと貧弱だったけれど、なかなか美味しく、アラビアータの味も妥当なところ。椅子とテーブルが「外人サイズ」で、全体にちょっとくたびれた店内や何となくおどおどしたホールスタッフ、折角の入口脇のカウンターが妙な具合に半分隠されている、なんていうことさえ気にしなければ良い店だ。夜なら、そんなささいなことと充分トレードできる渋谷の夜景も楽しめる。ただ、料理は古風で「ヘルシー」なんていう言葉がなかった頃の雰囲気だから、何事にもスマートであっさりした清潔さを求める現代の若者には受け入れられないかも。ま、どうせ客の年齢層は高そうだけど。

と、そんなことを書いているうちに、「東急文化会館」のことを思い出してしまったのだけれど、それはまた別の日にしようっと^^

引越し

あまり深記事く考えずにホストを選んで、特に不満もなかったのだけれど、広告がない、というのに惹かれてここに移転。とにかくシンプルにできるのが、とりあえず良さそう。でもサイドペインに小さいカレンダー出したいんだけどな~^^;
CSSが全部本体HTMLの頭にぶちこんであるのにはちょっとびっくり。
投稿のブロック右端処理に
text-align: justify;
text-justify: inter-ideograph;
だけとりあえず書き足して、後は細部の調整をそのうちに・・・っていつになるやら^^;

2012-01-30

昭和39年、コルベアとセドリック

前回に引き続き映画、または映画の中の自動車のこと・・・

芦川いづみ、浅岡ルリ子、吉永小百合、和泉雅子が四姉妹に扮した『若草物語』が最近BSで放映され、録画で鑑賞。偶然にも『ああ結婚』と同じ1964年の封切りで、長女芦川の夫役に内藤武敏、下の三人の相手役に浜田光夫、山内賢、和田浩冶の若手スタア三人に少し世代が上の杉山俊夫も大事な役で登場する。ほかに伊藤雄之助が姉妹の父親役で、田代みどりが和田の妹役で一瞬、顔をみせる。

題名とは裏腹、物語はオールコットの名作とは無関係で、大阪から父の再婚相手(東恵美子!)との同居を嫌った姉妹三人が家出を敢行、東京で団地住まいの長女夫婦のところに転がり込むところから始まるオリジナルストーリーの青春群像恋愛劇(!)。ワイドスクリーンによく考えられたカラースキームが映える映像は悪くない。女優陣も頑張っているし、浜田と和田の演技も思いのほかいい。しかし、脚本には妙なところが多々あり、何よりとにかく編集が悪過ぎて映画としてはどうにも完成度が低い。吉永小百合はまるで神経症みたいに感情の起伏が激しい、説得力ゼロの人物造形で、まじめに演じる吉永がまことに気の毒。和田の演じる金持ち青年もどうやらDV常習者のようで、終劇後の新婚生活が心配だ。山内賢に至っては、いくら生涯で一番映画にたくさん出ていた忙しい時期だったにしても、何だか一日で撮影したみたいな感じで、どうにも存在感が薄く、ドラマには何の役割も果たさない。逆にひたすら能天気に徹する和泉雅子が一番の儲け役かも。南極行くまでまだだいぶ時間がある頃で、結構かわいいし。

と、まあ、相当に文句も言いたくなるのだが、それでも、やはりこの映画は極めて興味深いものだった。というのも、背景となっていて、空撮まで駆使してかなりたっぷりと映し出される1964年の東京の様相は、まさに自分にとっては思い出の中のもので、もう一度見たかった街角がよみがえる、という意味で、これはまあ「リアル三丁目の夕陽」でもあるからだ。

となると、当然街の風景の中の自動車も気になるところ。セドリックやクラウン、フラットデッキのグロリア、コロナ、ブルーバード、コンテッサなどなど昭和30年代後半の国産自動車総出演が嬉しい。そんな中、特に大事な役なのが内外二台のクルマ。空港からモノレール乗り場を探す姉妹三人に声をかけ、家まで送る和田浩冶(そのご都合主義的唐突さは措くとして)が乗っているのは白いシボレーコルベアのスパイダー。VWイーターになるべく準備された珍しいリアエンジン車で当時のお金持ちの坊ちゃんには相応しい。出演者や関係者の所有者だったのだろうか。この時代の映画ならそんなこともありそうだ。映画紹介サイトで「ポルシェ」となっていたのは笑ったが、リビューアーは何故かリアエンジンであることだけは理解していたようだ。その和田とは恋敵、浜田光夫の会社が仕事に使っているのがセドリックのエステートワゴン。四つ目が横位置になってからの後期型で、5ナンバーの乗用車扱いの方だ。ラップアラウンドのフロントスクリーンが国産車としては珍しい初代セドリックだが、ワゴンタイプは荷室のサイドウィンドウもテールゲート側に回りこんだ凝ったデザイン。コルベアスパイダーとは好対照で、二人の青年のキャラクターを際立たせてもいる。

前に『恋文』で戦後ほどない渋谷の光景を見たときにも思ったことだけれど、映画はドキュメンタリーであれ劇映画であれ、どちらにしても、ある時代の光景を意図にかかわらず、余計な細部まで記録して、思いがけないみずみずしさで蘇らせてくれる。それもまた映画の面白さ。「それは、確かに、そこにあった」という単純だが、しかし多彩な快楽に満ちた映像・・・ということなんだろうな~^^

2012-01-29

マストロヤンニとアルファロメオ

ソフィア・ローレンという女優がたいしたものであることは、わざわざ言うまでもないことなのですが・・・

そのソフィア・ローレンが名コンビとも言えるマストロヤンニと愛人、というか夫婦というか、まあそんなものを演じているのが『あゝ結婚』、30年ぶりで見て面白かった。以下、プロットを書くわけではないけれど、一応「ネタばれ」注意で、万一まだ見ていない方はご注意を。

映画が公開されたのは1964年。冒頭、タイトルバックに使われているナポリの街角にはジアコーサの名作フィアット600があふれ、それだけで既にちょっと嬉しい。ファミリーカーは戦後世代になっているけれど、タクシーはまだまだ戦前型が基本のランチアが走り回っていて、映画の冒頭、病気で倒れたソフィア・ローレン、じゃなかったフィルメーナ・マルトゥラーノがタクシーから降ろされローマ法王みたいに椅子で運ばれるシーンがあるけれど、そこに出てきたのもそんな古めかしいタクシー。
1940年頃からの23年間が舞台とあって、このほかにも魅力的な車が結構出てくるが、マストロヤンニ演じる遊び人のドメニコ・ソリアーノが乗っているのもイタリアの各世代のスポーツカーだ。
最初は1935~36年あたりのランチアのアウグスタ。戦前の良き時代のこの車は、後にドメニコの使用人にしてフィルメーナの執事役、フィルメーナに求婚して「無理!」みたいに断られてもなかなか諦められないアルフレートが「お古」をもらって乗っている、という意地悪な設定で再登場。
次は、戦争が終わり、再会した二人が競馬場に行くシークエンス、初めて人前に連れていってもらえると思い込んではしゃぐフィルメーナ、しかし実は競馬場は休日、というほろ苦いシーンに出てくるのは、戦後間もない1947年(48年かも)のアルファ6C2500。中身は戦前だが、オラツィオ・サッタが大いに近代化したシャーシにピニン・ファリーナの5座キャブリオレ。ソフィア・ローレン本人みたいにゴージャスなボディーの一台は、身請けされ新しい家に住み、娼婦から愛人に、というフィルメーナの運命とメタフォリカルに照応する。
映画の後半、フィルメーナの一番下の息子がいるガソリンスタンドに修理依頼を装ってドメニコが乗り付けるのもアルファロメオだが(さらにこの後、フィルメーナとの重要なシーンでも道端に停められている)、こちらは映画公開当時まだ新しかった1962年の2600スパイダーでトゥリングの2+2。本当はフィルメーナを捨て若い女と結婚しようとしていたドメニコには、今度はこんな新型車がお似合いだ。ともあれ、どうやらイタリアの伊達男は屋根のちゃんとある車には乗らないらしい。
こんな車の変遷・選択にも、戦時下から戦後へと、時代がよく表現されていて「さすが」で、ドラマの中でメタファーとしての役割を振り当てられているようにさえ見える。いつも思うことだけれど、ヨーロッパやアメリカの映画はこういった車の選び方が実にうまく、面白い。

ところでこんな「映画と自動車」を調べるのには便利でマニアックなサイトがある。http://www.imcdb.orgでみると随分いろんなことがわかり、自分のうろ覚えも確認できて便利です(何の役にも立たないけれど)。大概は自分でわかるものが多いのだけれど、例えばこの映画では、ドメニコの店先のシーンで荷物のあとからフィルメーナまで降りてくるミゼットみたいな(というかそのパクリ元か)小型のバンがピアッジオのape(エイプじゃなくてアペ^^)なんていうことは、こういうデータベースで見ないと見落としがちだ。

映画のことを書くつもりが、すっかり映画の中の自動車のことで終わってしまいそうなのですが、まあ、そういうことなんだな。肝心の映画は、やはりソフィア・ローレンのためのソフィアローレンの映画であることは言うまでもなく、凄い女優をまさに堪能できる逸品だ。若いころにはわからなかったこともいろいろあり、身につまされることや、ほろ苦いこともあり、ともかく50過ぎになったら絶対に見るべき映画だと思う。いや~映画って本当にいいもんですね、さよなら、さよなら、さよなら・・・(まざっとるがな)

2012-01-23

Kが大好きだった、そうな・・・

コダックがいよいよ駄目になったらしい。「つけ麺大王」のカウンターにあった新聞によると、だけど。

仕事でも何回か日本法人にお世話になって、ロゴもおなじみだし、何より、30年ほど前、今の団地に引っ越してリニューアルする時に、スチールのドアの内側(ほかあちこち)を、ペンキ屋の親方にフィルムの箱をちぎって見本にして、この黄色にしてください、とお願いしたくらい、黄色いパッケージは大好きだった。ま、その頃はまだあんまり写真は撮らなかったし、ポール・サイモンの歌があったからと言うわけでもないのだけれど。ちなみに、「僕のコダクローム」はもともとCMソングじゃなくて、逆に90年代になってからCMにも使われたが、自分が覚えているのはもちろん70年代、S&Gが袂を別った頃のこと。

経済欄の受け売りなど試みてみると・・・フィルム撮影の衰退によりコダックやフジをはじめそれで食っていたところは皆、業態の変換を迫られたけれど、それがうまくいかなかった、というのが根本的な原因、とある。今頃、何を言ってるんだか、という話だけれど、まあ、結局はそういうことなんだろう。もちろんコダックだってデジタル化を指をくわえて見ていた訳でもなく、オリンパスと一緒にフォーサーズ規格をつくり、優れた撮像素子も送り出していた。しかし、「なりふり構わず」とさえ言える変貌で生き残ったフジなどに較べると、やはり本業への拘りがあって、普通それは良いことだろうと思うのだが、こういう事態には対応しにくかったらしい。一昨年にもコダックが再びフォーサーズ規格の撮像素子をオリンパスに、という噂があったけれど実現しなかった。なんだかオリンパスとコダックじゃ「泥船連合」(失礼><)みたいで悲しいが。

記者氏の書くように、それが、信念がなく小回りがきく日本式経営と、時に信念が変革を邪魔する古いアメリカ式の経営の違いによるものなのかどうか。それはわからないけれど、どちらにしても誇り高い一族経営で写真の歴史をつくってきたロチェスターの会社には、残酷だけれど、生き残る能力、適性がなかった、ということになる。「中国のメーカーからOEMで安いデジカメ入れて、後、会員制のフィットネスクラブとホテルの経営を強化して、燃料電池のベンチャーに投資したいんですが」「それはならん。我々こそ写真の歴史そのものなんじゃ」「お爺さまは今、このアメリカで起きていることがおわかりになっていないのです」「おまえにはまだわかっておらん。古今東西、人間とは同じようなものじゃ」・・・な~んていう会話が展開されたりしたのかしら。まさかね。

デジタルのカメラは確かに簡単に楽しめるし、一方、深く掘り下げれば、写真として考えたりやったりすることも沢山ある。しかし、「写真を撮るよろこび」については今は措くとして、実際問題として、今でも大判のポジを撮影してそれをデジタイズした方が、実は手軽によい画質を得られる。もちろんそれには、いいフィルム、まともに写真の撮れるカメラマンとか、プロラボとか、いろんな過去からの資産が使えてこそ、ではあるけれど。その「資産」が急速に衰退しているのがこの時代なんだな~

2012-01-22

安いスマホの話

IDEOSという中国製アンドロイド・SIMフリー機を去年の頭から使っている。入れているのはwillcomで契約したdocomoのデーター専用 SIMで、使い道はメールチェック、GPSマップ、テ○リングといったところ。悪い機械ではないし、それなりに楽しめるのだが、如何せん老眼の進行した自分には画面が小さく、また、ひどく遅くて電池がもたないのにも困る。一度バスの中におき忘れたのが戻ってきた縁起のよさもあり、捨てる気になかなかならないのだけれど、そんなことで不満が無いといっては嘘になるし、ま、考えてみるとあんまり良くないな~。

正月過ぎ、ふと立ち寄った町田のソフマップで8000円弱で叩き売られているRstreamA1というのを発見。androidが2.1ということもあり、一度はやめようと思ったのだが、2.2にできるかも、というのにつられてついつい手を出してしまった。2.1だからテ○リングできないのは困るのだが、画面も速度もIDEOSに比べれば遥かにマシ。あまり詰め込んで重くしないように気をつけて使ってみると、こんなものでも十分役に約に立つ、という感じ。もう一台買って、2.2化などに挑戦してもよいのだが、IDEOSも動くし、ということで、今日この頃は、スマホ2台、Hybrid-ZERO3、willcomTTを持ち歩いていて、何だかちょっと頭が悪そうな状況になっています。

電車の中でも「i」何とかをはじめ、皆がスマホをいじっていて、そろって画面を一所懸命こすっているのが奇妙な感じだけれど、皆、一体何をやってるんだろうか。メールのチェック以外に、録画したテレビの視聴なんかを本当にやってるんだろうか。一昨日の朝、すぐそばにいたサラリーマンは、「モノポリー」に熱中していた。会社に行く途中でボードウォークにホテルを建てたり監獄に入ったりするなんて、ゲームの中でのゲームみたいで、なんだかちょっと物悲しい。

2012-01-16

またもや、だらだらした休日の話

何だか、あれこれと場当たり的なことをやっているうちに一月も半分が過ぎてしまった。ああ、こんな風に今年も過ぎてゆくのだろうか。まあ、それでもいいんだけれど。

昨日の土曜日は寝坊したあと、正月に行きそびれた川崎大師をめざして家を出た。いつもの向ヶ丘遊園からの府中街道一本道では少々面白くないので、今回は尻手黒川道路(都市計画道路尻手黒川線という厳めしい別名もあるらしい)に清水台から出て、後は直進して川崎駅前に。これまた一本道だけれど、二車線道路にしては少し幅が広めなのと、アップダウンが少なく適度に街並み風景が変わるので自転車移動には悪くない。川崎駅からはやはり府中街道にでてしまうことになるので、たいした変わり映えでもないけれど、それでも少しは楽しい。小正月のお大師さんは前々日の「アド街」放送がさらに上乗せしたのかどうか参拝客で大賑わい。交通規制はやってないので参道は自動車も通り、ミニパトが再三「歩行者は歩道から降りないでください」とやっているけれど皆知らんぷり。

さて、自転車はどこに置こうか、ちょうどいいところに信金が、と思ったら、何と鍵を持ってきていない。ああ、今日は同じドイターでも一回り小さい方にしたんだっけ、と気づいたところで手遅れ。お参り出来ないじゃん><ということで、心の中で手を合わせて厄除け交通安全など手前勝手なことをお願いして帰ることにする。それにしても自転車に乗ったままで何もしないで、というのも悔しいし、一円も落とさないでお願いばかりもないもんだ。というわけで表参道出口の福嶋屋に自転車を引いたまま寄って「久寿餅」を勝って帰ることに。「看板娘」に「お兄さん、自転車どっから来たの」と尋ねられ「登戸のも少し向こうから」と答えてちょいとお喋り。「気つけて帰ってね」と送り出される。自転車を車道に引き出そうとしたら、「今のお客さんね、この寒いのに登戸の向こうから自転車だってさ」と次の客に話しているのが聞こえてくる。

走行50キロほどの楽な距離、何しろただただ往復しただけなので、家に着いたらまだ2時前。鍵がないから飯も食えなかったので、冬休みで帰国中の息子が布団のなかでぐだぐだしているのを横目に遅い昼食をとったら、自分も眠くなってしまった。息子を手本に(?)自分も午後はだらだらと過ごし、日曜といえ仕事で出ていた細君が帰ってきて、三人で夕食は新百合ヶ丘の回転寿司に繰り出すことに。今日は少しくらい並んでも我慢するぞ、という意気込みだったから、20分くらいの行列など気にも留めず、三人並んだカウンターで景虎を傍らにあれこれ食って満腹になる。どうも最近、食べ方が上手になったのか、量の割に勘定の具合がいい(安いのを食っているだけです)。

だらしなく、何も考えず、なかなか良い休日。そうそう、夕食後に家についてから食べた「久寿餅」は適度な歯ごたえと素朴な味わいで、大変に結構でした。

2012-01-07

パスタを食していろいろ考えた話

昨日からやっと働き始めたばかりなのに、今日はお休み。あいすみません、世間の皆様。そんなだらだらしている人の日記「みたいなもの」を書いてみます。

休みとはいえ、いつもの事ながら「なにやかにや」とあって仕事場に自転車で往復。浅間記念館からお借りして昨年末まで展示していたライラック・ランサー、先方から引き取りに来ていただくという、まったくもって申し訳ない有難いお話で、本当に感謝。もっとよくよく見ておけばよかったけれど、後の祭り。いろいろな工業製品のデザインの中でもモーターサイクルは特に「ごまかしの利かない」ものぢゃないかと思う。DP90も見たかったな。関西に良い状態のものが生存している由。いつか、どこかで、是非見てみたい。

午後遅くならないうちに、寒風の中、多摩川土手を走って帰宅。この間からどうもRDの調子がおかしい。がつっと踏み込んだ時に、異音と一齣ずれたような感覚がある。ここまで駆動系は一切部品交換なしで2万キロ走ったから、チェーンも伸び多少は草臥れてきたんだろうか。シフトに関するワイヤーの調整は、自分に出きるだけのことはやったつもりで、事実、上げても下げてもスムーズそのもの。とはいえ、どこかに問題があるので、次の休みにじっくりと追求することにしたい。
帰宅してみると『相棒』の比較的珍しい二話、小松政夫が仕立て屋のやつと、女性監察官が杉下右京をターゲットにするやつをやっていた。小松政夫の最後のシーンからついつい見てしまう。もっともこの仕立屋のシーン等々については、かつて引退した本職職人と話したことがあり、そのDさんによれば「よくできてはいるけれど、ちょっと違う」んだそう。ただし、杉下右京の毎回のスーツ選択には玄人にはわかる工夫があれこれとあるとか。

すっかり隅まで知っているドラマをまたまた眺めてだらだらと過ごしてから、夕食ついでに新宿にDVテープを仕入れに出かけることに。80分テープも10本セットで売ってると良いのに・・・。60分なら225円/1本なのが80分だと急に3倍以上の値になる。もっとも、ヨドバシカメラでの扱いをみても、早 晩、DVはほとんど使われなくなるのだろう。世界のどこかではC-VHSが今でも使われているそうだが、そのC-VHSのダビングがこれらDVテープの使い道。
夫婦そろって新宿での食事はどうも苦手。パリ4区くらいしか思い当たらず、渋谷へ。マークシティのLa casa di Nao がちょっと前から気になっていたので、そこに入ってみる。博多に本店のある店だそうで、ちょっと『バンビーノ』を思い出したりする。おりしもオーナーシェフ氏の姿も店内に。ワインがグラス売りハウスワインかやや高めのボトルか、というのにまず、ちょっとがっかり。せめてハウスワインはデキャンタで売ってくれないかな。前菜4種の盛り合わせはまずまず。ニョッキのゴルゴンゾーラもポモドーロもそこそこうまい。チーズをけちらないところも良い。もっとも大変よくできていたニョッキに対して、ポモドーロは些かクチーナから我々の席までの距離か時間が長すぎたようだけれど。

隣のテーブルの結婚間近カップル(観察と盗み聞きの結果です)がピッツァを頼んでいて、これもおいしそうだった。もしかするとベストバイかな?ちなみにこのカップルの男性の方は「タバスコを」と所望していた@@;。若いのにいまどき珍しい奴だ。彼女に馬鹿にされ ないとよいのだが。
と、料理そのものはまあまあなのだが、接客がどうにもこうにも。すべてのサービスのタイミングがおかしく、ぎくしゃくとしている。食べ終わった皿をあっという間に取り上げに来るのは不愉快を通り越して、どこでみてたんだろう的な、「とんき」のキャベツおかわり、みたいな感じで笑っちゃいそう。最初からパルメザン入りのオーリオを置くのなら、パンはもっと早くもってきて、おかわりもすすめるべきだ。ワインのお代わりや追加の料理やデザートをやけにすすめるのは、典型的な「家賃が高い」状態のあらわれだから、やればやるほど貧乏ったらしく逆効果なのがわからないかな~。一人断ったのにもう一人来たのにはちょっと驚いた。インドじゃないんだから。なかなか押し出しのいい黒服はじめ、スタッフはほとんど教育を受けていないようで、正直可哀相だ。一皮剥くとうまくいっていない店なんだろうな、などと本家家政婦みたいなことを言いたくなる。

日曜日に自らカウンターに入ってラーメンをつくるN社長にでも叱ってもらって、ピッツァだけに絞るのが生き残りの道かもしれないし、プリフィックスだけに絞り込みたいのなら、そうした上で魅力を考えるべき。な~んて、客というものは我が儘な上に生意気なものだ。いつも思うことだけれど。
二度と行きたくない、というより、別に酷くまずいわけでもないので、今後どうなってしまうのか、面白いのでまた見てみたい、という感じの店だ。

2012-01-01

つつしんでしんねんのごあいさつをもうしあげます

あたらしく迎える西暦を見るたびに、「未来だ~」と思ってしまうのは私だけでしょうか。その上、昨年は地震は兎も角として、その後の展開が「こんな未来は嫌だ」的な展開になり、いまだそれが継続している訳で、まあ、とにかく今年は平穏な一年になってもらいたいものであります。皆様におかれましても、本年が良い年になりますよう、心からお祈り申し上げます。

と、思いつつ新聞を広げたら、いきなりの一面見出しが「核燃料直接処理コストを隠蔽」で、ああ、やはりこの話からは逃れられないんだなあと実感。核燃再処理から国や東電が逃げないように、本当は安い直接処理(これも要は捨てて埋めるだけだからちっとも感心しない話ではあるけれど・・・)のコストを、いわゆる「ムラ」の人たちが隠蔽した、というある意味きわめてわかりやすい話で、正月から軽く国民の気持ちをげんなりさせる効果は抜群。

考えてみれば原子力発電による安くていくらでも使える電力、なんていうのはかつての「未来」の幻想にかなり重要な役割を果たしていて、自分などはまさに無邪気に『鉄腕アトム』的な未来をどこかで信じていた。そんな「原子力の平和利用」を、「進歩的な知識人」、被爆者・原水禁も原子力空母の入港に反対する人たちも共産党も社会党も、なぜだか判断停止状態で率先して支持していたのは確かで、たぶん、「反戦米兵」をかくまった人たちも、大菩薩峠の「軍事キャンプ」で「総括」を続けた人たちも、成田闘争に馳せ参じた人たちも、ほとんどが同じだったのではないだろうか。そういう意味で「隠蔽」されていること、「隠蔽したいこと」はあちこちにまだまだ沢山あるんだろうな~^^;