2012-02-29

あめりか自動車事情

過日『ドライビング・ミス・デイジー』を鑑賞。

主人公の未亡人デイジー・ワサン(ジェシカ・タンディ)が自動車で危うく崖(といってもほんのちょっとした高さだけど)から落ちそうになるところから物語ははじまる。祖父の代からの事務機メーカー社長の息子(ダン・エイクロイド)が母親に運転手・ホーク(モーガン・フリーマン)を雇う。はじめは運転手を拒絶するミス・デイジーだけれども、いろんなことがあって次第に運転手と心を通わせるハートウォーミングな映画、というのが、まあいわば「通り一編」の要約、ということになるだろう。

 もちろん、そういう「心温まる映画」には違いないけれど、もう少し注意深く見ると、いい映画の例にもれず、この映画もさりげないけれど、実に細部まで気をつかっていることがわかる。ユダヤ人の老女、アフリカ系のショウファ、それに若干、狂言回し的な役割がなくもない息子の三人が主要な登場人物だが、もうひとつ重要な役割を担っているのが1950年前後から70年代前半まで、代々移り変わるミス・デイジーや息子の、そして添景に現れる自動車たちだ。
冒頭で崖から落ちそうになって保険会社にもっていかれてしまうのは、戦後すぐのクライスラー。ロイヤルかウィンザーか、はたまたニューヨーカーか、この時期のクライスラーはグレードが違っても外観が見分けがつかない。基本的に戦前の設計をモダナイズした40年代の雰囲気の色濃い実用本位の良質なサルーンで、時代背景はもちろん、ユダヤ人実業家一家のもともとの実利的な暮らしぶりもまた示している。その代わりに保険屋が提供するのは、やはり戦後すぐのハドソンで、こちらはクライスラーとは違い完全な戦後デザインで、フレームに落とし込まれた低いフロアが特徴の「ステップダウン」スタイル。マルーンに近い塗装がちょっと洒落ていて、主人公二人の触れ合いの端緒でもあり重要な一台だ。ハドソンは、やがて時代の荒波の中で買収されて不幸な行く末を辿り、1960年代を待たずに消滅してしまう。ホークはこの車が気に入り、下取りしたディーラーから買って自分のものにすることになる。
 ミス・デイジーの車はその後、息子の経済的な余裕にしたがうように、それぞれの時代のキャデラックが続く。その移り変わりは、プレーンバックからテールフィンへ、そして縦四つ目へ、20年ほどの時間の中での「モード」の変遷が実によくわかり、またこの変遷が時間の経過を端的に示してもいる。それは映画も終盤、今は運転もおぼつかなくなったホークが孫娘の運転で、ミス・デイジーが施設に入ったため売りに出された家にあらわれる時の、マーキュリー・クーガーのコンシールドランプ(昼間はライトのレンズが隠れているあれです)まで続く。
興味深いのは、この終盤に至ると、成功した経営者である息子の自家用車が、もはやキャデラックではなく、メルセデスベンツ(300SEL)になっていることだ。フルサイズの「アメ車」の滅びゆく道筋が反映されていると同時に、ワサン家の当主ブーリーのユダヤ人としての出自への「意識の変化」も、この選択は暗示している。かつては、戦時下のユダヤ人「供用」の過去から、ユダヤ人には決してメルセデスに乗らない者も少なくなかったという。余談だが、「メルセデス」の由来が、オーストリアのダイムラーディーラー、ユダヤ人のエミール・イェリネックの娘の名だ、などというのは歴史の生んだ皮肉と言えるかもしれない。

 例えば、このメルセデスの登場には、遡って、非ユダヤの妻の尻に敷かれる息子、ユダヤ人にもかかわらずクリスマスを祝うような、いわば「堕落」と成功が引き替えになっていることが重なりもするのだが、他にも、一見淡々とした日常に、さまざまな時代の状況が垣間見える。シナゴーグに仕掛けられた爆弾騒ぎ、息子が商売を慮って出席しなかったキング牧師の夕食会、あるいは親戚の家への自動車旅行中にミス・デイジーとホークが警官と出会うエピソードなど、おおむねそれらはユダヤ人と黒人、二つの差別を受けるグループに属する二人の、「共感の可能性」とでも言うべきものがベースになっている。
そして今現在のこの日本の状況と照らし合わせるまでもなく、もちろんこれは老人についての映画であり、「老い」をめぐる家族についての映画に違いない。いやいや、これだけ色んなことがうまく入っている、というのが、つまり、すなわちもうそれだけで「良い映画」のひとつのあり方ということなんだな~

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