2015-10-01

雑感

安全保障、についてのメモ

 集団的自衛権は当然留保されるべきで、現実問題としてはできるだけ行使されないことが望ましい、というか、むしろ行使する状況を防ぐことが必要だ。この部分はウロボロス的で、集団的自衛権の留保による戦闘リスクの回避、こそが集団的自衛権の行使の回避につながる点で、核と同じ意味をもつ。
 ところで極東地域を中心にアジアをみると、北欧諸国とロシアの関係性に若干類似点をみることができる。「戦争法案(浅薄で愚劣なマーケティングによるネーミングだ)」に反対する人の中には、スウェーデンのように軽軍備中立を、という人も一定比率でいるようだ(多くはそんな事はどうでもよい、あるいは考えが及ばない人もいるように見えなくもないが…)。そのスウェーデンでも伝統的に中道左派的な政権、世論があって避けられてきたNATO加盟が、既に一定の民意を得ているようだ。
 原因は勿論ロシアで、「非民主的」 「覇権主義的」「膨張主義的」大国の侵略の脅威に「民主国家」同士の軍事同盟が抑止力になる、というわかりやすい図式ととらえることもできる。これをアジアに当てはめると、中国がロシアと同様の国家であることは、概ね間違いないことだろうが、しかし、周辺国がヨーロッパの基準(もちろんこれも歴史的・地域的なものに過ぎないけれど)で民主的かとなると、これは日本を含めて大いに疑わしく、北朝鮮の存在も問題を複雑化している。
 スウェーデンに話を戻すと、NATO加盟は別として、近年、近隣諸国との軍事的な同盟関係は漸次密接なものとなり、当然それらの同盟関係は「集団的自衛権」を踏まえてもいる。例えばNATO加盟国のデンマークとの関係は今年に入って、かなり緊密なものに改められ、それにより正式加盟はないもののもともと繋がってきたNATOとスウェーデンの関係も緊密化されたとみてよいだろう。仮に、スウェーデンの危機にデンマークが関与して、危機がデンマークに及べば、NATO諸国は当然、要請に従って集団的自衛権を発動させることになる。
 これが抑止力でなくて何なのか。スウェーデンの若者を戦場に送る「戦争法案」などと捉える人は、少なくともあまりいないようだ。ただし、「NATO加盟」となると話は別で、事態は思わぬことになりかねないことから躊躇する人も多く、現在でも過半数は加盟反対だ。

 さて、日本の状況はどうか。日米安保という非常に歪んだ関係が、今日の日本の繁栄(からゆるやかな凋落)の基盤になっていることは誰でもわかることだ。日本の再軍備を防ぐためにつくられた憲法九条はその背景をなす象徴で、信仰対象にまでなった。本来、日本が集団的自衛権を共有することによって戦争リスクを総合的に下げられるのは、まずはベトナムやインドネシア、オーストラリアや韓国であり、ひいてはインドに違いない(インドはあらゆる面で中国の最大の仮想敵国に既になっている)。そうした事のすべての「前」に、日米安保がドームのように被さっているのが現在の日本だ。そして、日米安保こそ九条とセットになっているのだから、本来ははるか以前に改憲する必要があったのだ。ついでに言うと、九条とセットになっていたもう一つの大きな問題が、「原子力」であることは言うまでもない。
 日米安保は不思議な条約で、60年にはじまり、70年に見直し、ということは当初より決まっていて、その後は自動的に継続されつつ、いつでも当事国どちらからか廃棄できることになっている。そこから、東アジア地域で15年以内には実現する中米の軍事バランスの逆転を背景に、安倍政権がアメリカに何を迫られているかは明白で、仮にいま、安保が廃棄されれば、沖縄が中国に実効支配されることも確実だ。
 とはいえ「現実」は軍事だけが国家間の関係を支配してはいない。経済や文化などさまざまな局面が錯綜したレイヤーになっているのが国家間の関係なのは間違いない。例えば軍事バランスだけが、ある特定のレイヤーだけが、突出してすべてを決定する訳ではなく、むしろ、あるレイヤーが他のレイヤーと牽制的に関係しながらテクスト化しているとみるのが妥当だろう。軍事レイヤーは経済レイヤーに牽制的にはたらき、逆も同様だ。
 テーブルの上の握手と下での蹴とばし合いは互いに続けられる。その意味で、ある程度健全な軍事レイヤーを構築することは経済関係によって牽制されながら、外交に柔軟性を生み、外交の極限状態としての戦闘リスクを回避することにもなるだろう、そうして逆に、文化やコミュニケーションだけで軍事衝突を避けられる、という考えが不健康なことも誰でもわかりそうなことだ。もちろん、軍事レイヤーとは別に、二国間の関係や地域国家間の関係は、他のレイヤーでも相互理解と非侵略を貫きながら、衝突リスク回避のために積極的に展開されなければならない。

 まず改憲を行い(ごく部分的なもので構わない)。次に合憲範囲で安全保障や軍備についての考え方を決める、というのが当然の方向である。
 最大の問題は現在の政権、に限らず、現代の政治家、にきちんと改憲する能力が欠如しているように思われる点だ。部分的な改憲さえできない彼らが、全体を構想するなど噴飯もので、実際に「自民党案」など論外の代物だ。伊藤博文たち明治の英才や、戦争直後の日本人とGHQの錯綜した共同作業に遥かに及ばないのだ。「解釈改憲」は、リスクヘッジとして有効だと思うべきなのかもしれない。

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